横浜市金沢区野島公園そばの旧伊藤博文金沢別邸に行ってきました。
平成の頃に出来たのは知っていて、行こう行こう思っていてはや10年。
やっと行くことが出来ました。
行く前はてっきり展示のようなものはないのかなと思ったのですが、予想外に色々展示があり、自分のテンションが格段にアップです。
平面図と共に説明が書かれていたり。(この図はパンフレットにも載っています)
伊藤博文に影響を与えた人々の写真と説明があったり。(個人的には長州ファイブの井上勝の写真がカッコよかったです!)
年表と共にある小ネタも楽しかったです。
ちなみにバザーは鹿鳴館の前、明治10年代前半にもあり、当時の新聞によると、伊東巳代治たちはバザーの陳列に駆り出されています。
横浜開港資料館にある明治憲法草案の複製です。
こちらはお風呂になります。
湯舟自体はそれほど大きくないですが、湯殿は大きめです。
廊下を通って、脱衣室があって、湯殿があって、裏側に釜揚があります。
ここに湯殿小話が書いてあったので、明治時代の湯を知るために簡単に説明を。
明治40年の改造で地元産の土丹石と呼ばれる泥岩を敷き、セメントと御影粉を作って人工御影塗りで仕上げたそうです。
お風呂は船大工に作らせたサワラの板風呂。煙突と釜とすのこも新調したそうで、お風呂の手前にあるのがすのこです。
お手洗いは左が大、右が小とわかれています。
廊下から見える小さなお庭。
他にも調理場とかも見られますし、晴嵐の間には明治憲法関連の資料展示、その廊下には伊藤博文関係の展示、夕照の間には伊藤博文由来のものがあり、秋月の間には伊藤家の話などの展示がありました。
秋月の間にある写真集。
遺影と言っても亡くなった時の写真ではなく、若い頃からの写真です。
長崎滞在時の写真とか、秦野煙草専売局の視察とか、長春での晩餐会とか見たことがない写真もあって楽しかったです。
紅葉館で行われたシュタイン博士の追悼会の写真もあったのですが、居並ぶ人々の中で伊東巳代治だけすごく若い。この頃もう大日本帝国憲法が出た後で30代のはずなのですが、髭がないのもあって20代に見えます。
帰帆の間ではお抹茶とお菓子がいただけます。
お菓子は「内川暮雪」という歌川広重の金沢八景の名前のついたお菓子でした。
ちなみに各お部屋も乙艫帰帆、洲崎晴嵐、瀬戸秋月、野島夕照と金沢八景から名前が取られているようです。
抹茶とお菓子のセットで600円でした(2020年2月現在)
海苔の向こうに八景島シーパラダイスが見えます。
この伊藤博文金沢別邸は明治憲法を作った時とは違う場所、違う建物です。
ここは野島ですが、憲法が作られたのは夏島で、建物の形も違います。
夏島の建物は、明治22年に夏島に砲台築造が始まったため、小田原緑町に移築して、伊藤博文の父・十蔵の住まいとしています。
でも、大日本帝国憲法を作る際、夏はいつも泳いでいたという海は一緒かもしれない……と思うと、テンションが上がってきます。
海側の道に回るとこんな風に伊藤博文金沢別邸の全景が見えます。
このすぐ裏に駐車場があるので、歩くのが苦手な方も行きやすいです。
ただし、野島に入ると急に道が狭くなるのでお気をつけて。
伊藤博文金沢別邸は牡丹園が見事で、春には美しい牡丹が咲き乱れます。
牡丹園はかつて野島にあった永島家の牡丹園を復元したものです。
伊藤博文自身は園芸などに興味がなく、盆栽好きだった伊東巳代治から見ると「如何にも枝幹の美事な盆栽でも路邊の断木と異ならない」という様子でしたが、よく転居するので「新築好き」と言われるほど家を建てるのは好きでした。
ただ、伊藤博文は美麗な家を建てるのではなく、手早く作られるの好きで、質素な建物ばかりです。
伊藤博文の大磯別邸『滄浪閣』も「田舎の役所か郵便局」と評されていましたが、質実を好む伊藤らしく、この金沢別邸も和風平屋茅葺屋根の落ち付いた建物になってます。
明治31年にこの別荘を作ってからは伊藤はそれほど建築をしなくなりました。
『滄浪閣』とこの金沢別邸が気に入って、落ち着いたのかもしれません。
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平成の頃に出来たのは知っていて、行こう行こう思っていてはや10年。
やっと行くことが出来ました。
行く前はてっきり展示のようなものはないのかなと思ったのですが、予想外に色々展示があり、自分のテンションが格段にアップです。
平面図と共に説明が書かれていたり。(この図はパンフレットにも載っています)
伊藤博文に影響を与えた人々の写真と説明があったり。(個人的には長州ファイブの井上勝の写真がカッコよかったです!)
年表と共にある小ネタも楽しかったです。
ちなみにバザーは鹿鳴館の前、明治10年代前半にもあり、当時の新聞によると、伊東巳代治たちはバザーの陳列に駆り出されています。
横浜開港資料館にある明治憲法草案の複製です。
こちらはお風呂になります。
湯舟自体はそれほど大きくないですが、湯殿は大きめです。
廊下を通って、脱衣室があって、湯殿があって、裏側に釜揚があります。
ここに湯殿小話が書いてあったので、明治時代の湯を知るために簡単に説明を。
明治40年の改造で地元産の土丹石と呼ばれる泥岩を敷き、セメントと御影粉を作って人工御影塗りで仕上げたそうです。
お風呂は船大工に作らせたサワラの板風呂。煙突と釜とすのこも新調したそうで、お風呂の手前にあるのがすのこです。
お手洗いは左が大、右が小とわかれています。
廊下から見える小さなお庭。
他にも調理場とかも見られますし、晴嵐の間には明治憲法関連の資料展示、その廊下には伊藤博文関係の展示、夕照の間には伊藤博文由来のものがあり、秋月の間には伊藤家の話などの展示がありました。
秋月の間にある写真集。
遺影と言っても亡くなった時の写真ではなく、若い頃からの写真です。
長崎滞在時の写真とか、秦野煙草専売局の視察とか、長春での晩餐会とか見たことがない写真もあって楽しかったです。
紅葉館で行われたシュタイン博士の追悼会の写真もあったのですが、居並ぶ人々の中で伊東巳代治だけすごく若い。この頃もう大日本帝国憲法が出た後で30代のはずなのですが、髭がないのもあって20代に見えます。
帰帆の間ではお抹茶とお菓子がいただけます。
お菓子は「内川暮雪」という歌川広重の金沢八景の名前のついたお菓子でした。
ちなみに各お部屋も乙艫帰帆、洲崎晴嵐、瀬戸秋月、野島夕照と金沢八景から名前が取られているようです。
抹茶とお菓子のセットで600円でした(2020年2月現在)
海苔の向こうに八景島シーパラダイスが見えます。
この伊藤博文金沢別邸は明治憲法を作った時とは違う場所、違う建物です。
ここは野島ですが、憲法が作られたのは夏島で、建物の形も違います。
夏島の建物は、明治22年に夏島に砲台築造が始まったため、小田原緑町に移築して、伊藤博文の父・十蔵の住まいとしています。
でも、大日本帝国憲法を作る際、夏はいつも泳いでいたという海は一緒かもしれない……と思うと、テンションが上がってきます。
海側の道に回るとこんな風に伊藤博文金沢別邸の全景が見えます。
このすぐ裏に駐車場があるので、歩くのが苦手な方も行きやすいです。
ただし、野島に入ると急に道が狭くなるのでお気をつけて。
伊藤博文金沢別邸は牡丹園が見事で、春には美しい牡丹が咲き乱れます。
牡丹園はかつて野島にあった永島家の牡丹園を復元したものです。
伊藤博文自身は園芸などに興味がなく、盆栽好きだった伊東巳代治から見ると「如何にも枝幹の美事な盆栽でも路邊の断木と異ならない」という様子でしたが、よく転居するので「新築好き」と言われるほど家を建てるのは好きでした。
ただ、伊藤博文は美麗な家を建てるのではなく、手早く作られるの好きで、質素な建物ばかりです。
伊藤博文の大磯別邸『滄浪閣』も「田舎の役所か郵便局」と評されていましたが、質実を好む伊藤らしく、この金沢別邸も和風平屋茅葺屋根の落ち付いた建物になってます。
明治31年にこの別荘を作ってからは伊藤はそれほど建築をしなくなりました。
『滄浪閣』とこの金沢別邸が気に入って、落ち着いたのかもしれません。
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